【猫の名前】



 ある台風の日の放課後、私は校舎一階の昇降口にいた。
 雨風は時間の経過と共に激しくなっている。傘は持っていたが、この強風と大雨では全く役に立ちそうにない。全身ずぶ濡れになるのを覚悟して、私は外へ出た。
 一刻も早く帰ろうと、私は傘を差しながら走り出す。しかし校門を抜けたあたりで、私の視界の端に体育館が入った。あそこの裏には、葉月君が学校に内緒でこっそり面倒をみている野良猫達がいる。もしかしたら、この風雨に体を震わせているかもしれない。私は迷いもせず、体育館裏に向かって全速力で走った。
 すると、そこには先客がいた。誰かと思って私が目を細めると、その背中が葉月君であると分かった。用事が無い限り放課後はいつも真直ぐ帰宅する彼だが、私と同じように猫の様子が気になってここに立ち寄ったのだろう。皆は知らないようだが、葉月君の優しさはこうした行動によく表れる。
 私は静かに葉月君に近付いた。彼は吹き込む雨に身体が濡れるのにも構わず、腰を屈めて猫に餌をやっていた。私の足音に気付いたようで、不意に彼が顔をこちらに向ける。
「……おまえか」
「うん、猫が心配でここに来ちゃった」
 猫達は体育館の狭い軒下に身を寄せて、葉月君が出したらしい猫用ミルクをぴちゃぴちゃと音を立てて舐めていた。しかし一番小さな猫だけは、ぐったりとして動かない。ミルクにも興味が無いようだ。葉月君はその猫をそっと抱いた。
「こいつだけ元気がないんだ。具合が悪いのかもしれない」
 よくよく見ると、それは葉月君が私の名前を付けてくれた新入りの子猫である。こうなってくると、私にはとても他人事に思えない。私は手を伸ばして、彼の腕の中にいる子猫を撫でた。
「可哀想に。これから台風が近付くみたいだけど大丈夫かな?」
「病気かもしれないから、今から一番近い動物病院へ連れていく。
 おまえも一緒に来るか?」
 私は葉月君の言葉に大きく頷くと、慌てて鞄を開けた。中に乾いたタオルを入れていたのだ。葉月君は私からそれを受け取ると子猫を包み、大事そうに優しく抱える。代わりに、私は葉月君の鞄を持った。彼は私に「悪い」と謝ったが、これぐらいは当然である。それに、中身は殆ど無いのか鞄は異常に軽かった。
 葉月君と私は足早に動物病院へ向かう。
 今まで私はその存在すら知らなかったのだけれど、動物病院は学校のすぐ裏手にあった。台風であるのに、受付ロビーでは会計待ちらしき人と動物が数組いる。
 葉月君が子猫を抱いたまま受付をした。初診であることと、現在の猫の具合を告げる。途中で看護士に猫の名前を聞かれ、葉月君は顔を僅かに赤らめながら私の名を伝えた。それには、彼の横で聞いていた私もつい照れてしまう。とても不思議な感じがした。
 幸いにも、子猫はすぐ診てもらえた。私は葉月君と共に診察室へ入り、状況を見守る。
 医者によると、猫は軽い風邪だという。飲み薬でも良いと言われたのだが、つきっきりで面倒を見られないので高価な注射を一本打ってもらうことにした。医者には飲み薬よりも注射の方が良いと勧められたので、子猫にとってもこちらの方が体が楽なはずだ。
 更に、今晩は猫を外に出さないようにと言われたので、葉月君がこのまま家に連れて帰ることになった。私の家は動物を飼えないので、そうしてもらえるのはとても有難い。
 注射が終わった後、ロビーに戻って会計を済ませた。葉月君が財布を出し、治療費を払う。動物に保険が利かないとはよく聞いていたけれど、たかが診察と注射一本でこんなに高額なのかと私は驚いた。葉月君は要らないと言ったが、私も半額負担した。財布の中身が非常に淋しくなったが平気である。子猫の役に立てたような気になれた方が、私にとっては重要だった。
 だが、驚きはこれで終わらなかった。
 お金を払い終わった後、看護士から診察券を渡された。勿論この子猫のものだが、診察券の名前の欄には、葉月君の姓に私の名前が続けて書かれている。これは猫なのだと頭で分かっていても、何だか私の診察券のようでとても恥ずかしい。横を見ると、葉月君も同じことを考えていたのか、彼は耳まで赤く染まっていた。
 葉月君は診察券をじっと見た後、大事そうに財布の中へしまった。いくら猫とはいえ、私の名前の診察券が彼の所持品になるかと思うと、照れる反面とても幸せである。
「帰るか」
「うん」
 私は葉月君に抱かれて眠る子猫の頭をそっと撫でながら、一刻も早く良くなってほしいと強く願った。
 それと同時に、この予期しなかった嬉しい出来事に心底感謝をする。他人には分からないだろうが、葉月君に憧れている今の私にとってはこの上ない幸福なのだ。













初めて王子に下の名前で呼んでもらう子猫イベントを見た時に
まず最初に思ったことがこの話でした。
都合で、今のアップとなりましたが
こうして無事に展示できて嬉しいです。
その他は……短く、簡潔に仕上げることを念頭に書きました。
これでも、最初に書いた時よりは少し肉付けしたのですが
短いとこれで内容が伝わっているのかと不安になりますね。
(20020924 UP)