【放課後のショパン】



 とある平日の放課後。
 週番だった私は、日誌を書き終えて校舎三階の廊下を歩いていた。これから一階の職員室へ行って、担任の氷室先生に見てもらうのである。
 三階端にある音楽室から、優雅なピアノの音が聞こえてきた。もしやと思って、私はそっとドアを開ける。僅かな隙間から音楽室の中を覗き見ると、やはり想像通りだった。ピアノを弾いているのは、あの氷室先生である。前にも一度こういうことがあったので、私には容易にそこへ結び付けられたのだ。
 聴こえてくるこれは何だろうと私は思った。ゆったりとした優しい三拍子のこの曲は、よく聴くクラシックのものだ。これまでもテレビやCDで何度となく耳にしているが、先生の生演奏はそれと比べ物にならないほど情緒豊かで素晴らしい。先生自身はいつも堅物なのに、ピアノとなると全然違う。私は聴いているうちに、先生が奏でる世界に引き込まれていった。
 突然、演奏が止まる。
「あれ?」
 どうしたのだろうと思っていると、私が隠れていたはずの教室のドアが急に開いた。
「わ、わわわわわ……」
 私は身体の重心をドアに預けていたので、弾みで前に蹌踉けてしまう。先生に抱きかかえられたお陰で転ばずに済んだ私は、恥ずかしさと申し訳なさで顔を真っ赤にしながら詫びた。
「すみませんっっ!」
「……そんなところに隠れていないで、中へ入りなさい」
 先生は表情を崩さずに私を離すと、一人でさっさとピアノの方へ向かった。私も音楽室のドアを慌てて閉めて向かう。
「今日は部活動が無い日だが──そうか、週番か」
「はい。日誌を氷室先生にお届けにあがるところでした。後でチェックをお願いします」
「うむ」
「あの……どうして私がそこにいるって分かったんですか? 邪魔にならないよう、気を付けたつもりだったんですが」
「君の姿が僅かに見えた。ただそれだけだ」
 流石先生だと、私は内心舌を巻く。
 先生は、先程途中で止めた曲を最初からピアノで弾き始めた。優しくて甘い空気が、音楽室をたちまち満たしていく。
 五分弱掛かって、その曲が終わる。私は感動し過ぎで拍手をするのをすっかり忘れてしまった。先生の視線が私に向いているのに気付いて、慌てて心を込めて拍手をした。
「素晴らしかったです、氷室先生! 私、感動しました!」
 先生はフッと笑って前髪に手を遣る。
「それは結構。
 ところで、これは誰の曲だか分かるか?」
「え?! えっと……ベートーベンじゃなくて、モーツァルトじゃなくて……」
「ショパン、だ」
 そうなのか、と私は苦笑いをしながら大きく頷いた。しかし作曲者名が分かっても、肝心の曲名が思い当たらない。
「ショパンの夜想曲
(ノクターン)第二番。彼が作った全二十一曲の夜想曲の中でも、“夜想曲の代名詞”と呼ばれるぐらい、特に人気のあるものである。
 さて、再び質問だ。ショパンの曲を他に挙げなさい」
「ええ?! ショパンですか? え……あ……あぁ! “子犬のワルツ”とか“別れの曲”とかありますよね?!」
「宜しい、正解だ」
 私はホッと胸を撫で下ろした。今は自由な放課後のはずなのに、授業で小テストを受けている気分である。
 先生は満足そうに口元に笑みを浮かべると、椅子から立ち上がって壁際の棚に向かって歩いた。鍵の掛かったガラス戸を開け、中から楽譜を取り出す。再びピアノに戻った先生は楽譜をパラパラとめくった後、譜面台にそれを開いたまま置いて準備をした。
「ここに来て、楽譜をめくりなさい」
「は、はいっ!」
 私は緊張しながら、先生の邪魔にならないよう脇に立った。楽譜に書かれた曲名を見ると、“華麗なる大円舞曲”とある。知っているような、知らないようなタイトルだった。
 先生のすうっと息を吸い込む音が微かに聞こえた。それと同時に演奏が始まる。
 私はてっきり、先生がこの楽譜の曲を演奏するのかと思っていたのだが、実際に聴こえてきたのは私が挙げた“子犬のワルツ”だった。曲名の由来とされる、子犬が自分の尻尾を追ってぐるぐると回る様子がすぐに頭に浮かんでくる。
 それがあっという間に終わると、次は“別れの曲”がしっとりと耳に入ってきた。これも聴き慣れている曲なのに、とても新鮮な気持ちになる。美しい旋律に、私はうっとりとなった。
 そしてようやく“華麗なる大円舞曲”が始まった。名前を楽譜で見ただけでは、それがどんな内容かなんて見当もつかなかったけれど、こうして聴けば私のよく知る曲だと分かる。きらびやかな衣裳に身を包んだ貴族達が豪邸の大広間で踊っていそうな、華やかで軽快なワルツだ。先生の見事な演奏に、私は楽譜をめくるのをつい忘れそうになったぐらいである。
 曲が終わって、先生の手が止まった。
「どうだ?」
「──凄い……凄いです、氷室先生! 私、こんなに凄い演奏を生で聴いたのは始めてで、あの……何と言ったら良いか。ええと、とにかく凄かったです!」
 私は興奮していた。言葉通り、頭の中には“凄い”の二文字しかない。感想を述べろと言われても、どんな言葉も私の感動の前には色褪せてしまうのだ。
 そんな私に、先生は苦笑する。
「君は語彙が決定的に不足しているようだ。
 私が弾いたこの三曲についてのレポートを提出しなさい。長さは二千文字以上、期限は二日後だ」
「えー?!」
 思ってもみなかったことに、私は憤慨する。先生は首を左右に振った。
「『えー?!』ではない。作曲者や曲が作られた背景を知るのは、その曲を深く知るのに最も有効的な手段だ。
 来週はリストを弾く。再来週はラヴェルだ。事前にきちんと予習しておくように。以上」
 予期せぬレポート提出に心底驚いていた上に、先生が流れるような早口でそれを言ったので、私は与えられた幸運にすぐ気付けなかった。
 あれ?と思いながら質問を口に出してみる。
「……先生、今、『来週』っておっしゃいました?」
「音楽の補習だ。時間があるなら、来週のこの曜日にここへ来なさい」
「は、はい! 有難うございます!」
 先生が、あの素敵なピアノ演奏をまた聴かせてくれると言う。私は嬉しくて、キャーと叫びながら飛び上がって喜んだ。先生はそんな私に一瞬眉を寄せたが、決して怒らなかった。
 来週も再来週もこんな素晴らしい演奏を聴けるのなら、言われたレポート提出だって頑張ろう。予習だって喜んでやろう。そして次こそは、上手く言えなかったあの感動を先生に伝えたい。できれば、私の拙い音楽の知識を総動員して、いつか先生にリクエストなんぞもしてみたいとも思った。
 先生がピアノに鍵を掛ける。その時、壁に掛かったスピーカーから、校内に残っている生徒に下校を促すアナウンスが聞こえてきた。私は先生と共に音楽室を出て、ずっと持っていた日誌を渡す。
 帰宅しようと思って別れの挨拶をすると、先生が廊下の窓から外を見ながら言った。
「少し待っていなさい。もう遅いから、私が車で送ろう」
「! あ……りがとうございます」
 一旦、先生と別れて、私は靴を履きに一階昇降口へ向かった。足の動きが自然にスキップに変わる。
 今日の放課後は、強烈な意外性で満たされていた。それも嬉しい“予想外”ばかりである。これが来週もあるのかと思うと、今から楽しみで仕方がない。怖いだけかと思っていた先生がより親しく感じられて、私にとっては大きな収穫だった。
 “来週の放課後はリスト”
 私にとって幸せな言葉である。













作中に出した「夜想曲第二番(変ホ長調)」は
ピアノ曲ばかりを書いたショパンの中でも有名で
皆に愛されている曲です。
聴けば「あぁ、これね」とお分かりになると思いますので
機会がある方は是非どうぞ。「華麗なる〜」も同じです。
氷室先生は、クラシックネタが書けるので幸せですね!嬉しくなります。
(20020801 UP)