【指輪】



 十二月二十三日。
 葉月君から誘われて、私は臨海地区のショッピングモールの中にいた。一週間以上も前から考えに考え抜いた洋服を着て、彼の横を楽しく歩いている。
 葉月君が言った。
「その服、いいな。お前に似合うよ」
「本当?」
「あぁ。特にその指輪、センスがいい」
 私は、先日のフリーマーケットで買ったシルバーのピンキーリングを左手にはめていた。薔薇をモチーフにした可憐なデザインが気に入っている。わざわざ見せびらかしていた訳ではないが、葉月君の方で勝手に気付いてくれたらしい。今日初めてつけたので、彼に褒められるのは嬉しかった。
 私達はぶらぶらとショッピングモール内を歩く。
 すると、大勢の客でひときわ賑わっている店があった。大人っぽいエレガンスな洋服を扱っている、ブティック・ジェスだ。いつもは静かで品良い店内のはずなのに、赤地に白抜き文字で”SALE”と書かれた用紙がそこら中に貼られている。
「あ、そうか! バーゲンは今日だったんだ!」
 ジェスは安売りをしないことで有名な店だが、年に一度だけ特別に行なっている。それが今日なのだ。私はネットで事前にその告知を知り、手帳にチェックしておいた。だが、今まですっかり失念していたのだ。
 私はジェスの店内を覗き込み、横にいる葉月君の顔を見上げた。彼は人混みが大嫌いだ。女性ばかりがギュウギュウ詰めになっている店に入りたいと言ったら、嫌がられるだろうか?
 でも、できれば行きたい。そして気に入った服があったら買いたい。いくらバイトをしているからといって、月々の小遣いを含めた金額は大したものではなく、やりくりが本当に大変なのだ。ジェスの服は大好きだったし、せっかく安く買える場面に遭遇したのだから、葉月君を説得してでも私はバーゲンに参加したかった。
 思い切って言ってみる。
「葉月君……」
「ん?」
「私、あのお店で買い物がしたいんだけどいいかな?」
「──あそこで?」
 途端に、葉月君は眉を寄せる。私は慌てて言葉を続けた。
「あ、あのね! 凄く混んでるから、葉月君は他のお店を見ててもいいよ。ほら、近くにベンチもあるし、休んでいたら?」
「……そうする」
 葉月君は冷たくそう言うと、さっさとベンチに向かって歩いてしまった。彼が腰掛けたのを確認して、私は「よし!」と気合いを入れてジェスへ向かう。これから、私の戦いが始まるのだ。
 店内は本当に混んでいた。
 どこから見ようかと私がうろうろしていると、壁際でこの様子を満足げに見ている花椿せんせいの姿が見えた。私は人をかき分けながらせんせいに近付く。
「花椿せんせい!」
「あーら、来てたの。お元気?」
「先生もお元気そうで何よりです」
 花椿先生はにっこり笑うと、私を上から下までじろじろと見た。
「ん──今日の格好、良いわ。 ちゃんとアタシのおしゃれコラムを読んで研究しているわねっ!
 感心、感心」
「有難うございますー」
 彼こそが流行だと言われている花椿せんせいに、直接ファッションチェックをしてもらった上、これ以上ないお褒めの言葉を頂けた。私はにやける口元に手で隠しながら礼を言った。
「あら、そのピンキーリング、ちょっとアンティーク風で素敵じゃなーい。なかなか見ないデザインね! どちらの物?」
「フリーマーケットで見つけたんです。買った時には大分錆びていて酷い状態だったんですけど、頑張って磨いたら綺麗になったので、早速つけてみました」
「グーよ、グー! そういうのは一点ものに近いのよね。お店で買える新製品ばかりが、おしゃれじゃないわー。その意気で、今後も頑張りなさーい」
「はい!」
 花椿せんせいと別れて、いよいよ私はバーゲンに参加した。とりあえず気に入ったものは全部手に取って、後で買うかどうかを決める。ハンガーに掛けられたスーツや、棚にあったカットソー、カーディガンを、買い物カゴ代わりの透明なビニール袋の中へ入れていった。
 すると突然、入口付近で女性店員が大声を上げる。
「ただ今からー、タイムセールを行ないますーっっ! このワゴンにある商品は、全品定価の七割引でーす!」
 その瞬間、店内中の客がそのワゴンに向かって一斉に突進した。私もその群れの中にしっかり入っている。
 ワゴンセールだからと甘く考えていたのだが、流石花椿せんせいがオーナーを勤める店である。品が良くて質の高い品揃えに、周りの客同様、私もすっかり興奮しきっていた。とにかく手を伸ばして商品を取る。付近の人と洋服の引っ張りあうなど、漫画だけの世界かと思っていたが、実際に体験してしまった。
 私はワゴンにまた手を伸ばした。
 その時だ。
 左手の小指から、指輪が抜けそうになった。
「わっっ!」
 私は慌てて左手の親指で小指の指輪を抑えようとしたが、まったく追いつかない。気付いた時には、指輪は完全に指から抜けていた。
「え? あ、ちょ……ちょっと──えええ?」
 全力で前へ移動し、指輪が落ちたはずのワゴンの中を必死で探す。しかし指輪は全く見つからない。
 そうこうしているうちに、再び女性店員が大声を出した。
「タイムアップですー! ワゴンは撤収しまーす!」
 指輪のことがあるので私は必死でワゴンを押さえていたが、大人数で運び出そうとする店員にはかなわない。私は去っていくワゴンを悲しく見た後、もしかしたら床に落ちているかもしれないと、今度は下を向いて探し始めた。
 だが、やはり見つからない。念の為、商品でいっぱいのビニール袋の中も確認したが、そこにも紛れていなかった。
 買ったばかりで、しかも気に入っていた指輪をなくしてしまい、私はすっかり意気消沈した。あれほど購入欲が強かったのに、今は指輪さえ見つかってくれれば何もほしくない状態である。混雑している店内をよろよろと歩きながら、ビニール袋に入れていた洋服を一つ一つ元の場所へ戻していった。私が商品を置いた途端、他人の手がさっと伸びて奪っていく。しかし、不思議と悔しくはなかった。
 葉月君を放っておいて買い物しようとした罰だ、と私は思っていた。店員に店内買い物用のビニール袋を返し、重い足を引きずって店を出ようと決めた。
 すると、丁度店の入口付近にいた花椿せんせいとぶつかってしまった。
「す……すみませんっ!」
「大丈夫? 鼻が赤くなっちゃったわね」
「はい。それは平気なんですけど」
 私は花椿せんせいから目を離す。
「あらあら、お気に召すものがなーんにもなかったのかしら?」
「いえ、そうではないんです。実は……」
 私は指輪を失くしてしまったことを花椿せんせいに伝える。せんせいは混雑する店内をじろっと見た後、ふぅっと息を吐いた。
「それなら、アタシについていらっしゃい! ワゴンは店の裏に運んであるから、そこで気の済むまで探せばいいわ!」
「え──あ、有難うございます!」
 まさか花椿せんせいがそんな機転を利かせて下さるとは思ってもみなかったので、私は心の底から驚いた。そして、先を歩くせんせいの後を歩いたが、ふと待たせたままの葉月君のことが気になった。
「せんせい! あの、実は友達をずっと待たせているんです。呼んできても宜しいでしょうか?」
「アタシは待つのは嫌いよ! 早くしてね」
「はい」
 私は急いで通路のベンチまで戻った。葉月君は鞄を抱きながらくうくうと眠っている。
「葉月君! 葉月君ってば!」
 何度も葉月君の身体を揺すり、私は強引に彼を目覚めさせた。半分朦朧とした彼は、ぼんやりとした目で私を見る。
「……ん? お前か」
「ずっと放っておいてごめん! あの……ちょっと私と来てくれない?」
「はぁ?」
 私は葉月君の手を無理矢理引っ張ると、そのままジェスの裏へと連れていった。スタッフオンリーと書かれたドアの前で、花椿せんせいが待っている。せんせいは、私の後ろにいる葉月君に気付くと舌舐めずりをした。
「まぁ! 連れって葉月珪のことだったのね んん、いいわぁ。見ているだけで、アタシの創作意欲がそそられるっ!」
 せんせいは頭を掻きむしると、葉月君を見ながらあーだこーだとぶつぶつ言って服のデザインを始めてしまった。私は慌ててせんせいをせっつく。
「せんせい? あの、指輪を……」
「あぁ、そうだったわね! こっちへいらっしゃい!」
「指輪って何のことだ?」
 葉月君が、私にそっと問いかけてきた。私は何も無い左手の小指を彼に見せる。
「ワゴンセールを漁っている最中に、あの指輪が抜けちゃったの。花椿せんせいが、裏で探させてくれるって」
「……ドジ」
「指輪、ちょっと大きかったの。だから簡単に抜けちゃったんだと思う」
 店の在庫商品を管理している場所に通された。例のワゴンが目の前にある。
 せんせいが言う。
「商品はこっちの棚に移して構わないから。じっくり探しなさい」
「すみません」
 私は頭をぺこりと下げて、早速指輪を探すことにした。商品の洋服に余計な皺を作らないよう丁寧に取って、すぐ横にある大棚へ移していく。葉月君も手伝ってくれた。
 だが、ワゴンの底を空にしても指輪は見つからない。棚に移した洋服に引っ掛かっているのではないかと、花椿せんせいに了承を得て、一つ一つを叩いてまわった。それでも出てこない。私は諦めて、出した洋服をワゴンに戻した。
「他の場所で落としたんじゃないか?」
「ううん。このワゴンに手を伸ばしている時にね、指輪が抜ける感触がしたのよ」
 葉月君の質問に、私は首を左右に振って答えた。花椿せんせいが優しい声を掛けてくれる。
「それじゃ、他のお客さまの荷物に紛れたのかもしれないわね。
 さっき、うちのスタッフの子にも指輪の件を言っておいたから。何かあったら連絡するわ。でも、あんまり期待しない方がいいわね」
「ご迷惑をお掛けしてすみません。どうぞ宜しくお願いします」
 私は自分の携帯の電話番号をせんせいに告げ、葉月君と共に外へ出た。人で賑わうジェスの前を再び通る。店が盛況なのは変わらない。
「行こう?」
 私は葉月君を促してそこから離れた。いつまでも店の近くにいると、どうしても未練が残ってしまう。フリーマーケットで初めて見た時から気に入っていた指輪は、こうして失くなってみると私に強い執着心を起こさせた。花椿せんせいも言っていたが、中古品というのは良い意味で一点ものである。何処其処へ行けば確実に手に入るなんてことは無いし、逃がしたらもう永遠に出会わないなんてざらだ。
 それから私達はアクセサリー店に入った。何も考えずにぶらっと立ち寄ったのだが、いつの間にか私は代わりになりそうな指輪を目で探していた。しかし、これというものが見つからない。
「……本当に気に入ってたんだな」
 私の行動に気付いたのか、葉月君がそう言ってきた。
「うん、失くなったから余計かな。しかも自分が悪いんだしね。それに──」
「ん?」
「明日、理事長のお宅でクリスマスパーティーがあるじゃない。そこでつけようと思っていたの」
「そうか……」
 私も葉月君も、それ以上何も言わなかった。
 結局、何一つ買わずにショッピングモールを出る。いつもなら、その後に学校近くの児童公園でだらだらと時間を過ごしたりするのだが、流石に今日はそういう気分になれなかった。
 家まで送ってくれた葉月君に礼を言う。
「有難う。葉月君も疲れたでしょう? 今日は色々とごめんね」
「……別に、俺は……」
「また明日ね」
「あぁ」
 私は、去っていく葉月君の背中を見送ってから、家の中に入った。途端に、ドッと疲れが身体を襲う。
「ん? 姉ちゃんってば、葉月とのデート帰りっていうのに随分シケた顔してるじゃん!」
 自室に入るなり、ノックもせずに入ってきた尽が突っかかってきたが、それに答えるゆとりすら残っていない。煩いと返事をして尽を追い払った後、私は晩ご飯も食べずにそのまま寝てしまった。



 夢も見なかったせいで、翌朝はあっという間にやって来た感じがした。今日はクリスマスイヴだ。
 私は昨日の出掛けたままの格好で起きると、カーテンを開けて日光を浴びた。今日は夕方から、理事長宅でのパーティーがある。
 私は携帯電話を見たが、着信もメールも一件もなかった。もしかしたら指輪の件でジェスから電話が掛かってくるかと思ったのだが、期待は見事に裏切られた。何かあったら電話する……と言われたのだから、何も無かったから電話が掛かってこないのだ。私は、まだ未練が残る自分を叱咤した。
 午前中は家で学校の課題をこなし、夕方の出かける直前になって私は慌てて支度をした。小遣いで買ったとっておきのドレスを着て、怒られない程度の薄い化粧をする。昨日のこともあり、何もつけてない小指が妙に淋しく思えたけれど、代わりの指輪をはめる気にもなれなかったので、そのままにしておいた。
 会場である理事長宅に着くと、そこは既にはばたき高校の生徒で溢れかえっていた。私は玄関で受付を済ませ、中に入る。誰かいないかと思いながら辺りを見回していると、突然ぐいっと腕を掴まれた。
「あ、葉月君!」
 目の前にいるのは、タキシードを颯爽と着こなしている葉月君だ。相変わらずのその格好良さに、私は見愡れてしまった。
 葉月君は、まだ誰もいない壁際へ行こうと促してきた。私は頷いて彼についていく。まるで人目を避けるような感じだ。私が不思議に思っていると、葉月君がコホンとわざとらしい咳払いをした。
「これ……」
 葉月君はポケットから何かを取り出すと、そっと私の手に握らせた。私が手を開いてみると、薄い桃色のフェルトで作られたごく小さな巾着袋状の物がある。袋の口を開けて、その中身を取り出した。すると、銀色に光る指輪がコロッと出てきた。見ると、私が失くした指輪ではないか。
「──え?」
 しかし、そう思えたのはその瞬間だけだった。よく似ているけれど、細部が違う。もしかして、指輪を失くしてしょげていた私を思って、わざわざ似たものを買い求めてくれたのだろか?
 だが、私は更に想像を働かせた。葉月君の趣味は、シルバーのアクセサリー作りである。もしも、そう、あくまで仮定の話であるが──。
「葉月君、私の為にこれを作ってくれたの?」
「……あぁ。俺が覚えている範囲で似せて作ったから、かなり違うかもしれないけど」
「凄く似てるよ! 思わず、失くしたものが出てきたのかと思っちゃったぐらいだもの。
 でも昨日、私と別れてから作ったんでしょう? よくできたね」
「作業はそんなに大変じゃない。苦労したのは、指輪のデザインだ。こんなことなら、もっとよく見せてもらえば良かったな」
 そういえば、シルバーのアクセサリーを簡単に作るキットがそこらで売られている。いつも作っている葉月君の手に掛かれば、たった一日で仕上げるなんて簡単なのだろう。それにしても、見事な出来栄だ。私は唯一の持ち主だから違いに気付いたが、他人なら全然分からないに違いない。
 その指輪を見て暫しぼーっとしていた私は、葉月君にまだお礼を言っていないことに気が付いた。
「本当にどうも有難う。とても嬉しくて──どうお礼を言ったら良いか。
 早速、はめてみるね」
 私は指輪を左手の小指に入れた。オリジナルとは違い、今度はサイズがぴったりである。これなら緩んで落ちることもなさそうだ。それに気のせいか、こちらの方が私に似合っているように感じられる。
 思ってもみなかった嬉しいクリスマスプレゼントに私は心が弾んだが、それもすぐに萎んだ。
「でも私、葉月君に何もお礼できないよ。今日、皆で交換する分のプレゼントしか持ってきてない」
「別に構わない。俺は、お前が喜んでくれればそれで……」
 葉月君はそう言うと、目を細めて優しく微笑んでくれた。本当を言うと、指輪以上にその笑顔の方が嬉しかったのだが、彼には言わないでおこうと決める。私は何度も何度も指輪を触った。
 その後、葉月君と一旦別れた私は、来た時の気の重さも吹っ飛び、クリスマスパーティーを存分に楽しんだ。理事長からのスペシャルゲストとして呼ばれたらしい花椿せんせいとも、ノンアルコールのシャンパンで乾杯を交わした。
「今日は貴女に、スーパーでスペシャルでミラクルなプレゼントがあるのよー」
 花椿せんせいはニッと笑いながらそう言うと、私に指輪を差し出した。それは正しく、私が失くしたはずのものである。
「せ、せんせい! これって……」
 私は指輪を翳し見た。確かに私の指輪だ。薔薇の模様も、指輪の幅も、そして私の指よりやや大きなところまで寸分違わない。
 驚いている私に、花椿せんせいが説明する。
「昨日の閉店後、店の大掃除も兼ねて徹底的に探したの。陳列棚の下に落ちてたわー。きっと落ちた時に転がったのね」
「お手数おかけしました! どうもすみませんっ」
「でも、もう要らなかったかしら? 随分良い代わりの指輪をしているみたいだし」
 花椿せんせいの視線が、私の左手の小指に注がれていた。慌てて、私は右手でそれを隠す。
「これは、さっき友達から貰ったんです。その……私がいつまでもこの指輪のことを気にしていたから」
「友達って、葉月珪でしょう? うふふ、いいわねぇ、青春だわ☆」
「せんせい……」
 花椿せんせいは、軽やかなスキップを踏みながら私の元を去っていった。人混みに消えていく背中に、改めて私は頭を下げる。
 まさか指輪が戻ってくるとは思っていなかった。今朝、起きた時点に連絡がない時点でもう諦めていたのに、奇跡が起こったような感じだ。
 しかし、私はドレスのポケットの中にその指輪をしまう。失くしていたのはたった一日だが、私の左手の小指には最高の指輪がはまっているのだ。
 私は指輪を再度見て大きく頷くと、花椿せんせいとの会話を伝える為に葉月君の姿を探した。













王子で指輪ネタはED以外避けたかったのですが
書いてしまいました……。
最初は指輪じゃなく、ブレスレットだったんです。
でも冬だとコートに隠れてしまうので他人に気付かれ難いし、
夏だとクリスマスパーティーがないので。
(バーゲンはオリジナル設定で設けることも無理ないのですが)
私も指輪が大好きですけれど、しょっちゅう失くしてます。うう。
(20020805 UP)