【最終日の悪あがき】



 夏休みもあと二日で終わるという八月末。
 私は手付かずの課題の山を前に溜め息を吐いていた。
「こんなはずじゃなかったのに……」
 そう、夏休みが始まる前に立てた予定では、今頃の私は課題を全部終えて夏休みの最後を名残り惜しんでいるはずだったのに……目の前の現実は厳しい。課題はどれも真っ白である。
 まだまだ大丈夫だろうと踏んでいた先月末、もうちょっと遊んでも平気だよねと自分に言い聞かせた二週前、もうそろそろ始めないとまずいなと思いつつ遊んでしまった一週間前、そして最後に頑張れば平気と開き直った一昨日だ。流石にもうやり始めないと間に合わない。
 幼い頃から私はこうだった。こういう課題でも、テスト勉強でも、直前にならないとやる気のスイッチが入らない。しかも質が悪いことに、それで出た結果を知って「もっと早くやっておけば良かった」と悔いるのだ。毎回この調子なのに私は全く進歩せず、自分で自分を呆れるばかりだった。
 さて、何から始めようか。
 私は課題を前に唸った。熱心な氷室先生のお陰で、私のクラスは他に比べて特別に数が多い。止めてくれと泣きつきたいところだが、私達にそれができる訳がなかった。
 とりあえず、頭を使うものは後でやろうと決めた。嫌なことは何でも先延ばし、明日出来ることは今日やるな、が私の座右の銘だ。
 まず、美術。所定の画用紙に風景画を書かなければならない。どこかへ出かける時間も惜しいので、二階にある私の部屋のベランダから外を見て描く。丁度隣の家の庭に見事な銀杏の木があるので、それをメインにした。使用する画材は自由だとあったので、私は時間の掛かる水彩ではなく、マーカーで色塗りする。出来上がったものは子供のお絵書き程度のものだったが、水彩絵の具で真面目に描いたとしても同じ出来だったように思えたので、気にしないことにした。
 次は習字。授業でしか使わない道具を床に広げ、筆を動かした。練習もせずにいきなり本番用の紙で挑む。上手く書けたらそれで終わりと思っていたけれど、結局最後の紙まで使ってしまった。お世辞にも綺麗とは言えない字だが、これが私なのだから仕方がない。
 その次は音楽。指定のクラシックの曲を聞いて、作文用紙にレポートを書かねばならない。私は、両親がたまたまそのCDを持っていたので、ジャケットの曲目解説にあった文章を参考に書くことにした。後は辞書を引き、適当そうな感想の言葉を連発する。こんなこと思ったこともないという文章になってしまったが、たかが宿題だし、これで構わないだろう。
 その後は読書感想文の為に本を読む。これは前から好きな話で何度も読んでいたので、そう苦もなく進められた。
 お茶を飲み、一段落した後は、母親に頼み込んで趣味のレース編みテーブルコースターを出してもらった。これを自分の作品と偽って家庭科の自由課題に提出するのである。
 さて次は……と思った時、私の携帯電話が鳴った。この忙しい時にと苛立ちながら取ると、画面には葉月君の名前が出ている。私は慌てて顔を叩き、今思ったことを取り消した。
「も、もしもし?」
『俺、葉月だけど』
「久し振り。元気だった?」
 夏休み中、私は何度となく葉月君を遊びに誘ったのだが、彼は長期休暇ということで大きな仕事を入れてしまったらしく、全て断られてしまった。行きたくないという理由ならともかく、仕事なら仕方がない。私は少しだけ落ち込んだが、気持ちを切り替えて喫茶店でのバイトに励んでいたのだった。
『あぁ。
 ところで、明日が暇なら植物園へ行かないか?』
「え? ええと……」
 私はまだ終わっていない沢山の課題を見つめた。暇といえば暇なのだが、はっきり言ってその時間は課題に当てたい。だが葉月君からのせっかくのお誘いだ。できることなら受けたいが。
『どうした? 予定入っているのか?』
「あ、あのね、特に何もないんだけど、夏休みの課題が終わっていないのよ」
『課題か』
 私は正直に言ってみた。下手に嘘を吐くより、事実を素直に白状する方が良いと思ったからだ。それに私には一つの目論見があった。それは勿論、葉月君が課題をある程度終わらせていると見越してのことだ。
「植物園も凄く行きたいんだけど……葉月君にもし終わっていない課題があるのなら、一緒にやらない?」
『……忘れてた』
「え?」
『課題があるのを今まで忘れてたんだ』
「えぇ?」
 私は驚いて大声を上げてしまった。いくら葉月君でもこれは凄い。課題は学年全員に出されたものと、クラスや部活動で追加される分がある。氷室先生のお陰で私のクラスは学年中最も量が多いのだが、葉月君のクラスだってそれなりにあるはずだ。もし私が言わなかったら、彼は一体どうなっていたのだろう。
『どこまで終わっている?』
「実は私も慌てて始めたばかりなの。すぐ終わるものばかり手を出してて」
『なぁ、明日俺の家に来るか? 面倒臭くて写しが利くやつは、分担してやろう』
「あ、賛成! じゃあ問題集やプリントは明日の分に回すね」
 その後、私と葉月君は電話で打ち合わせをした。一番嫌だと思っていたことが、葉月君に助けてもらえるだなんて本当に助かる。明日は浮かれていないで頑張ろうと思いつつ、残りの課題をやるべく私は張り切った。


 さて、その翌日。
 やや寝不足気味だったけれど、電話で決めた指定の時間に向けて私は家を出た。いつもなら葉月君が私の家までわざわざ迎えに来てくれるのだが、そんな暇があったら課題を少しでも進めてくれと私が遠慮したのだ。
 すっかり行き慣れた道を進み、私は葉月君の家に着いた。出てきた彼に、母親から持たされた差し入れのお菓子を渡す。
 葉月君の部屋は、相変わらず物が少ない。ただ、いつもはきちんと片付いているのに、今日は課題らしきものが床のあちこちに散乱しているので、彼なりに焦りがあるのだと思えた。
「俺が数学をやるから、お前は英語な」
「うん」
 どちらかと言えば私は数学より英語の方が得意だったので、葉月君の申し出は嬉しかった。これで最も苦手だった数学をやらずに済むとほくそ笑む。
 私達は黙々と問題を解いていった。クーラーが効いている部屋は涼しくてとても快適である。外の猛暑が嘘のような環境で、私達は余計なお喋りもせずにひたすらシャーペンを動かした。
「……終わった」
「え?」
 突然聞こえてきた葉月君の声に、私は思わず聞き返してしまった。葉月君は数学の問題集を私の方に向けると、最終ページまでぺらぺらとめくる。確かに、彼は短時間でそれを終えていた。
「葉月君、凄いね」
 私は感心した。そんな葉月君に対し、私の英語はまだ半分も終わっていなかったからだ。これでもあまり悩まずに早く解けていると思っていたのだが、葉月君はそれ以上のスピードだったらしい。英語以上に数学は”考える”問題が多いというのに、この結果は素晴らしいものだ。おまけに、私は辞書や参考書をフルに使っているのに対し、葉月君はそれらを何も使っていない。自分の頭だけで問題を解いている。
「前にも言っただろう? 俺のは超能力みたいなもんだって」
「でも、数学は公式だけ覚えれば必ず解ける訳じゃないよ。問題に対して、どの公式をどうやって当てはめていくかが大変なんだもん。能力以前に、葉月君は頭が良いんだよ」
「俺は古文をやる。お前も、そっちを頑張れ」
 葉月君は数学の問題集を床に置くと、続いて古文のプリントに取り掛かった。彼が本気になれば、課題の山などあっという間に片付くのだろう。同じ物を同時で始めたとしても、私とは全然違う。
 ようやく私が英語を終わらせると、葉月君も古文のプリントを片付けたところだった。そこで、私達は数学と英語の問題集を交換する。私のクラスでは古文での課題が出ていないので、残念ながらそちらは関係なかった。
 私は葉月君の数学の問題集を借り、自分のに写していく。中には私一人で解けないような難しい問題もあって、改めて彼の凄さを感じた。
 葉月君が私に声を掛けてきた。
「なぁ、この問題の答えが間違っている」
「??」
 葉月君に言われて、私は英語の問題集を見た。
「ほら、ここの前置詞。“on”になっているけど、ここは“to”だろう?」
「本当だ! ごめんね」
「あとここも。綴りが違ってる」
「う……」
 私は恥ずかしがったが、事実なのだから仕方ない。他にも誤りがあったけれど、それはそれできちんと受け止めて謝った。幸い、葉月君は気にしていないようだったが。
 その後、食事やお茶の休憩を何度か取り、私はひいひい言いながら課題を何とか終わらせた。一方、葉月君はけろっとしている。
 とにかくもこの二日間は、妙な充実感があった。葉月君のお陰で、毎年のそれよりも後悔の度合いが少なかったのが嬉しい。次の長期休暇に当たる年末年始の冬休みも、彼と一緒に仕上げられたらとまで思ってしまった。学生としては最低な考えだが、私にとっては勉強よりも葉月君との時間の方が大事なので、これぐらいは構わないだろう。その分、普段の勉強を頑張れば良いのだから。
 帰る時は、葉月君が家まで送ってくれた。
「植物園、来週の日曜日に行かないか?」
「うん! もう課題も無いしね」
 葉月君が誘い直してくれたので、私はすっかり有頂天になる。ずっと頭痛の種だった課題が終わったことも手伝って、自分の部屋に戻っても私は浮かれっぱなしだった。



 だが、やはり氷室先生は流石だった。
 二学期の始業式の日に課題を提出した数日後、私は氷室先生に呼び出されて、放課後に職員室へ寄った。
 氷室先生は、私が出した数学の問題集を手にしている。そして、クッと口の端を上げながら冷笑した。
 先生の話によれば、今回の数学の課題は、私達にはとても解けないような問題が全体の三分の一もあったという。その狙いは、正解を出すというよりあれこれと悩むことにあったようで、解けなくてもいいから考える楽しみを私達が知ることに意義があったらしい。そして、それらを解けたのは学年中たった二人、葉月君と私だけだという。それに疑問を持った先生は、私達の問題集を見比べてみたようで、その結果として私が呼び出されたのだった。
「……休みの間に、随分勉強したようだな」
 私がそれらを解けた理由など分かっているくせに、氷室先生は冷たく言う。すっかり畏縮した私はごめんなさいと謝ることもできずに、ただただその場で立ち尽くした。
「来週の月曜日、小テストを行なう。内容は全部この中から出す予定だ。
 もし、そのテストの点数が悪かったら──分かっているな」
 氷室先生の凄みに、私は頷くしかなかった。
 今度の日曜日こそ植物園へ行けると思ったのに、それはどうも無理そうである。葉月君に教えを請う為、職員室を出た私は彼の携帯電話に連絡を取った。













時事ネタです(笑)。
私も休み最後になって慌ててやるタイプだったので毎年毎年苦労しました。
やはり“明日できることは今日やるな!”ですよ、はい。
尤も、高校に入ってからは受験勉強があるので
学校からの課題は少なかったですけど。
休み明けの小テスト対策の方が大変でした。
家庭科の課題に母親のレース編みを出したのは実話……。
先生にえらく褒められて文化祭に提出させられました。
(20020828 UP)